夏の進軍を待つ

曇天が続いて、肌にしっとりと梅雨の残党がへばり付いている。
もうじき、夏が隊を組み梅雨の前線を蹴散らしながら進軍を始めるだろう。
季節はいつも通り移り変わり、私たちの揺れ動く生活の上を過ぎていく。
 
ほんの数ヶ月の間に、世界が大きく変わってしまった。
 
後に語り継がれるであろう歴史的パンデミックの時代に生きていること、そしてこの後大きな変革期に突入するであろう社会を生き抜いていかなければならないこと。
今までリスクヘッジを取るための概念に近かった自分の人生「観」を、現実味を持った仕様書にしていかなければならない焦り。
何を思うか、何を感じるか、どんな発言をするか、どんな行動をとるか、そして何を信じるのか。
全てが徹底的に「個人」に委ねられた、と感じる。
 
人間の差別的な部分や歪んだ自尊心、崩れた秩序や暴力的正義。今まで世間体や常識で蓋をされていた本質、度を越えた批判や排他的思考。
今まで、どこかしら平和な日々の中で、産声をあげた瞬間から用意された安全と秩序と常識を享受し、なんとなくの普通となんとなくの安心に包まれた状態で時間が流れていた。生きる中で降りかかってきた数多の悲しみや絶望はあれど、それは個人レベルの問題であって、今のように自分が立つ足元の根底、酸素のように当たり前に存在していると思っていた核が、もう既に無きものであったことに気付き始めた、こんな底冷えするような不気味さを味わったことは一度もない。それは突然現れた脅威が気付かせた、すぐそこにあった異変。そこはかとないキナ臭さ。正に「其処は彼と無い」。
 
都会のことも田舎のことも、色々なことを見聞きした。この僅か数ヶ月間の間で。
身動きが出来ず、得体が知れず、先が見えない中で、負の感情に埋もれてしまった。
自分の中にある禍々しいものが疑念と恐怖と怒りを餌に増幅してくるような。
這う這うの体で抜け出してみて結論したことは、結局、人は多くのものに関わる事なんて出来ない。個人でしかないということ。
理想論と持論をあべこべにして、綺麗事と自分事を一緒くたにしてみても、小さく微力でしかない。自分を過大評価するから、気に入らないものに怒り、違いを見つけて突き、膨れ上がった自己愛を正義に変換して鎌を振り上げるんだなと。私たちは所詮、ある程度の集合体で協力し合わなければ二進も三進も行かない微弱な存在なんだとなと。
よくよく考えてみれば、人は普通の日常の中でさえ、あれやこれやと言いながら思いながら生きている。未知の脅威とかそっちのけにしても、今日1日だって、失礼なことを言われて腹を立ててみたり、あぁもっといい方法があったのではと落ち込んでみたり、なぜ自分はこうなんだと自責の念に駆られてみたりもした。小さな細切れのような思念を数珠のように繋ぎ合わせて日々が出来上がる。所詮、自分のキャパの許す限りの感受性で出来上がる世界でしかない。小さな個人でしかないのだと結論した。なんだか自己中心的結論のような気がしないでもないが。
 
明日明後日明々後日、どこまでも不明瞭。
その中にあっても、私は今この街にいる自分に満足しこの生活を選んだことに一握の後悔もない。「仕方がないこと」が溢れているのが日常で、受け入れて自分の人生の時間を上手に使っていかなければいけない。負の感情やマイナスな行動に時間を費やす時間的余裕はもう無いんだろうと思う。自分のために、自分が関わる僅かな世界のために何が出来るのか。
命がけで現場に立ち続ける医療従事者・エッセンシャルワーカーの方々に、今この瞬間も尊敬の念が絶えない。私に何が出来るのか、私なんかに何が出来るのか。その答えがないまま、あらぬ方向の怒りや批判にベクトルが向いていた。冷静に考えれば、このしがないOLに出来ることなんて大して無くて、自分の行動に気を付けるとか通勤を可能な限り減らせるテレワークの充実化とか、至極真っ当な超現実的社会的な行動のみ。私は今この時代を一生懸命生きる。それ以上でも以下でもなかった。
個人が関われる僅かな世界のために。その連なりが社会であると思う。
 
あと数日で、ひとつ齢を重ねることになる。私はこの時代を生きていくうちの1人。
目の前に並ぶタスクが少しずつ変化を遂げている。この年齢の私に与えられる課題とチャンス。
自分の普通の生活と、脅威との共存が隣り合わせにある。今までと同じには戻れない、本当に新しい時代が必然的にスタートした。
「個人として考える」ことを今まで以上に意識して、毎日を送りたい。…あくまで理想だけど(本音)
 
 
元来夏嫌いの夏生まれだったが、今はただ、突き抜ける夏空を待ち焦がれている。
露に湿った曇天を蹴散らし力強く進軍する、夏の隊の来訪を。