夜のまたたび

最近、テレビを観なくなり毎日ラジオを聴いている。
朝はNHKのR1、その他は「夜のまたたび」を。
 
「夜のまたたび」はTwitterから派生して兼業作家になった燃え殻さんと、AV監督の二村ヒトシさんの二人で雑談をする番組。
燃え殻さんが番組内で言っているように、心療内科のような番組。
 
少し高くてあどけなさが残る燃え殻さんの声と、低く穏やかで海をイメージさせるような二村ヒトシさんの声。
グズグズと泣き言を漏らす燃え殻さんを、包み込み共感し肯定し称賛し甘やかしながらおちゃらけて、いざという時は透明な真綿で包む様に擁護する二村さん。
 
私は二村ヒトシという人をこの番組で初めて知ったが、大人という言葉がしっくりくる懐の深さと安心感。
色々な有象無象を目にし耳にし生きてきた東京の人だな、と感じる。都会で人格形成された人の持つ、独特の冷静さと教養がある。
 
燃え殻さんに関しては処女作を出版される少し前にTwitterをフォローし、著書も発売されれば買って読んでいる。
Twitter芸人」と揶揄される部類でも、その他大勢とは一線を画す筆力のある人ではないかと個人的には思っている。正直私の中で小説家というカテゴライズではないが、書く文章が好きで、そこかしこで言われているように「文章の中に自分がいる」錯覚を起こし、自分の中の何かが救われる。
 
基本的に自己肯定感の低いスタンスでダメ人間として自分を表現している。が、東京である程度サラリー経験がある人ならわかると思うが、彼は全く底辺などではなく中流の上澄みを漂ってる人種。そして仕事の出来る人。
彼の世界にいる有能な人と比べれば劣るのだろうが、ブラックの零細ベンチャーが「会社の体を成す」までの過渡期の中心に鎮座し、かつ法人個人ともに結果を残すって、正直普通の人には不可能だろう。
アンチを引き寄せる要素が豊富だが、今まさにその世界の真っ只中にいる人には、息切れを起こしながら「辛い!無理!死ぬ!」と言いながら(自分とはレベルが違うものだとしても)結果を残していくその姿に激しい共感と泣きたくなるような救いを感じてしまう。
 
こういう人も苦しみながら諦めながら許しながら生きている。
そして怒られてる。怒られてへこんでいる。
 
何もかも完璧にするのが不可能で、どこかで妥協したり放棄したりしなければならなくて、他人はどこまでも身勝手で、自分も人としてちっとも完成される兆しがなくて、夜の電車で通り過ぎる景色をぼんやり眺めながら、365日中300日くらい、あぁ救われたいとぼんやり思う。
そんな中、二人の穏やかな「こんばんわ」の声から始まるこのラジオを聴くと、薄明かりの中にふわふわしたものが浮かび上がってきて頬を撫でられるような感覚を覚える。
 
あぁ、よくやってる、よくやってるよ。まだ大丈夫、大丈夫だと、鏡に向かって1人でつぶやいてる
綺麗な虹に近づきたくて、でも近くに行ったらただ雨が降っていただけだったとユーミンが言っていた。(中略)わかるよ、美しい虹ほど土砂降りで、まるで針や石の礫のようなものが降っていたりするんだよね
 
そうなんだよ。程度の問題じゃなく、年齢や仕事の量やレベルや社会的地位は関係なく、辛いもんは辛いんだよ。誰しもにこんな夜があるんだよ。
肯定してくれ、今この瞬間この状況この感情この存在を肯定してくれと思う瞬間があるんだよ。ぎりぎりを生きてる日があるんだよ。
 
そう思いながら、下ネタや哲学の話の合間に漏れ出る嘆息に口元が綻ぶ、そんな感じのラジオ。
たどたどしく読まれた「お手紙」の中に「このラジオは今1番信頼できる場所です」といったような内容のものがあって、ひどく共感した。
アーカイブが聴き終わってしまうのが勿体なくて、大事に聴いている。あと数回しか残っていない。
 
ラジオってこんなに良いものだったのかと、この年齢にして新たな発見をした。
テレビ捨ててみて良かったな、と思いながら、燃え殻さんの本業はテレビ業界だったと思い出して少し笑った。