辻褄

30代で自分と向き合わないと、40代で辻褄が合わなくなる。
ポットキャストのキャスターの言葉が、魚の小骨のように刺さっている。
 
思えば、ずっと辻褄が合っていなかった。
辻褄を合わせるために、あれもこれもしていた。
 
自分の中にある社会への不適合さを、肯定するものを欲していた。
恥ずかしながらこの歳になっても、「ねぇ、わたし間違ってないよね?これで合っているよね?」と突然湧き上がる不安と恐怖と疑問に打ち勝てない。
この辻褄が合っていない世界にいつも溶け込めない、圧倒的孤独感が拭えない。
わたしは病んでいる、と何度思っただろう。でも残念ながらこれは病みではない。持って生まれた性格なのだと、より一層深く絶望する。エゴでさえない。わたしは常に恐ろしいと思っている。金があってもパートナーがいても、このべっとり張り付いた恐怖心は消えることなどないと、35年間で嫌というほど思い知らされた。
 
安心が存在しない人生を生き続けなければならない。
この辛さを、誰かにぶつけられるほど愚かにもなれない。
 
 
40代が見えた今、これ以上何をしたら良いのか見えない。
 
どれだけの人を踏み台にしたのだろうか。踏み絵だって喜んで踏んだ。自覚している。
沢山の人がいたはずなのに、誰もいない。当然だと思う。誰の手も取らなかったし、追いかけなかったし、愛しまなかった。
誰も愛さなかったことに、35歳まで気付かなかった。支配欲と独占欲と承認欲と愛の区別が未だにつかない。
 
両親に感謝するべき容姿をもって生まれた。カテゴリーは中の中、一番不幸になりやすいと揶揄されるレベル。
努力は容姿のお陰にされ、妬み嫉みは無駄に引き寄せ、哀れな女レッテルは容姿によって強固なものになる。恩恵がなかったとは言わないが、幸せと不幸の割合で言えばぶっちぎりで不幸が勝る。
この歳になっても、未だに世間はこの中途半端に老いた小綺麗な顔を許してはくれない。
 
「頼むから、男も女も、ほっといてほしい」
この願いを叶えるのは、この国では唯一、東京だけのように思う。
何もかも飲み込むくせに、そこら中に鏡があるような場所。あちこちにいる自分を映したような他人。同族嫌悪。
でもみんな、気が付くと放射線状に散り散りに歩き出していて、気付くとぽつねんと一人。
何も持っていなかった私は、何も持たないまま、ただ時の流れるまま、ひとり。
 
続ける強さも曲がらない意思も降りる勇気もない。せめて信じる心さえあれば良いのに、欠片も持ち合わせていない。
子供を産めば変わると言う人は愉快だと思う。この成れの果てを見て、自分の腹から負の連鎖を産み出す恐ろしさを想像だにしないのか。
 
 
辻褄が合っていない。
辿り着いたここは分不相応で、これから自分が前に進もうとする道すべてが分不相応なことも知っている。
ふとした瞬間に猛烈に自覚するこの感情が、また恐怖を増長させる前に、プライドに似た何かで覆い隠す。誰かより劣っていない場所を言語化して声高に叫ぶ。わたしはここにいるべき人間なのだと他人を通して自分に向かって叫ぶ。傍迷惑な中年に成り下がったものだ。成り下がった?違う、わたしは元々、この底辺で生まれ死んでいく人種だった。今ここにいる事実と、辻褄が合っていない。
 
次に進む道が見えない。でも見つけないと。
自分を納得させることが、生きるために必要な要素だから。
生きねば、せめて親よりは長く。