35歳を生きている。

寒い。なんでこんなに寒いのか。
 
こんなにもマフラーに顔を埋めウールのコートを着込まなければ外出できない冬将軍の独壇場が続く世界において、隙間から微かに吹き込んでくる春の息吹を感じている。
あぁ、こんな季節の変わり目を空気という不確かな存在で感じとるようになったのか、と感慨にふける。
春の匂いだとか秋の空だとかが、概念上ではなく現実に存在していると、今日の私は確信している。
 
35歳を生きている。
 
何となく色々なことに対して肩の力が抜けている。
肩といえば肩凝りがひどい。凝りといえば腰痛も出てきた。
腰といえば一生消えることがないと思っていたくびれの輪郭がぼんやりとしている。
輪郭といえば顔の輪郭もてろんとしている。
顔といえば肌は確実に弛みを見せている。
弛みといえばほうれい線がしっかりと形状記憶されている。
 
「おぉ、これは『老い』だ」と感嘆する。
 
感嘆している場合じゃないんだが、いちいち素直に感嘆する。
35歳にとって、本物の老いはまだ目新しい存在だからだ。
 
30歳が曲がり角だとか世間では言われるが、『本物』は34歳に来た。
明らかに今までと異なる何かが、己の体に起きる。
「まじBBA~」のセリフが言えなくなる。本物になるからだ。
34歳の私が己の体の内から湧き上がる見たことも無い老いに狼狽えている最中、「スタンフォード大学の研究チームが『ヒトの老化は34歳・60歳・78歳で急激に進む』という研究結果を発表」とのネットニュースが飛び込む。遠く離れた生涯会うことも無い秀才たちからトドメの一撃を喰い、思わず笑ったのを覚えている。やめてもらっていいですか?
 
これが緩やかに(秀才たち曰く60歳になるまでは)続いていくのか。
面白いものだなと思う。顔も体も造りは変わっていないのに、表皮が刻々と変わっていく。
しげしげと観察してしまう。
知ってはいたけど、我が身に起こると強大な焦りと共に微かな感動も起きる。
この微かな感動は、恐らく自分の中に歴史を見るからだ。
 
変わるのは表皮だけではない。
この長引くウイルス禍で完全に引きこもりに拍車がかかり、仕事以外で殆ど他人と会わない。
良い悪いはさておき、今までになく心が穏やかだ。「さみしい」という感情が鈍化したように思う。
満足と安心。年配者が保守的思想を強める理由を少しずつ理解する。
このまま時が過ぎ、日常を愛しむ中で守りたい世界の色だけが濃くなっていくんだろう。
世界が狭いといえばそれまでだが、そんな薄い言葉で表せない歴史が刻まれた日常が在る。
若さというのは、この各個人が持っている歴史の存在を認識していない可愛い未熟さを言うんだろう。
 
驚くのは、こんな風に移ろいを感じながらも未だに次の道を探し続けてる自分だ。
今日に至るまで通過してきて様々な場面と比べても、この2年間は凪のように穏やかな日々を送っている。
それなのにまだ、新しい道を、日常の色どりに加える新たな染料を探している。
 
40歳の自分に、30代の自分は何を残してあげられるのか。
その問いを胸に、どこかに落ちている答えの欠片を、視力が低下した両眼で探している。